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2009年1月

2009年1月29日 (木)

シンポジウム「 知の公共性をデザインする」に参加してみた

シンポジウム「 知の公共性をデザインする」に参加してみた。

2009年1月29日(木)に東大 福武ホールで行われた東大大学院情報学環でのシンポジウム

認知テクノロジーとは何かというキーワードに惹かれて参加をしてみました。

シンポジウム内容 http://www.nulptyx.com/lec_cognitive.html

難しい話は別として、研究者や教育者にとって、ソフトとしてのwikiやyoutubeの存在は自然発生的なボトムアップ的知のデザインの一つとしてとらえている事がわかり、現実的に一般社会の中で莫大な広がりをしているが、それに対して知のプロ達が構築している知識の体系的な知のデザインを使って分類+抽象化→関連の認識を可能にする「知の構造化」の必要性についても認識できました。批判や批評が歪曲された使われ方をする昨今ですが、「概念の批判を映像で行う」というのは面白い試みだと思います。私の別プロジェクトの「デファクトメディアアーカイブ」にも必要な試みかもしれません。

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2009年1月 6日 (火)

ヤミタイ通信4

ヤミタイ通信4

萩尾望都さんの1985年作品「スロー・ダウン」は、今更ながらとても興味深いです。心理実験を美しく表現した萩尾さんならでは人物描写といえます。初めて読んだ時に、こんな題材がマンガになるのかと衝撃を受けました。

【内容】SF的シチュエーションの短編。ルイは、ボランティアかアルバイトとして、「実験」に参加。視覚、聴覚、触覚を遮断された状態で、地下室に隔離され、一人で過ごさなければならない。(しかも、外からは研究者たちが、ルイを完全にモニタリングしている)時間が過ぎるにつれ、ルイの意識は次第に不確かなものとなり、精神的な混乱に陥っていく。そこに、食事を受け取るボックスから、誰かの手が一瞬垣間見え、思わず強くその手をつかんでしまうというアクシデントが…

「感覚遮断実験」

生活的活動と食事とトイレ以外はまったく行わせず,感覚的なあるいは意味のある刺激入力を極度に制限する実験が,「感覚遮断実験」である。
この実験では,ほとんどの感覚が遮断される。そのため,被験者は初め,よく眠る。だが,そのうちに不快さを訴えるようになり,2,3日この状態を続けると,思考に乱れや空白が生じる。
これらの実験から言われていることは,人間の心理状態の維持にとって適度な刺激が必要であること,自発的で自主的な行動をする必要があること,そして,そうした活動の制限が行動への動機付けを生じさせていること,の3つである。
(参考文献 心理学 出版社:東京大学出版会)

どうやら適度な刺激が人間を安定させているようですね。

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2009年1月 4日 (日)

ヤミタイ通信3

ヤミタイ通信3

群盲象を評す

最近、金融危機を伝える情報サイトで、この比喩を「論ずる対象が同じであっても、その印象も評価も人それぞれに異なる」と言う意味や「僅か一部分を取り上げたところで、その事象の全てが分かる訳ではない」と言う意味で、よく目にするようになった。どんな話かというと・・・

鏡面王は言った、「すぐに、象の所へ連れて行ってやれ」、家臣が王の命を受け、この盲人達を象の元に連れて行き手を引いて、盲人に示した。

中には、足を触る者、尾を持つ者、尾の根本を持つ者、腹を触る者、脇腹を触る者、背を触る者、耳を触る者、頭を触る者、牙を触る者、鼻を触る者がいた。

盲人達は象について、各々の見解を争い、自分は正しく他の者は間違っていると収拾がつかなくなった。                                                                                             

家臣は王のもとに連れて帰った。王は、「お前達は象を見たことがあるか」と聞いたが、見たことはないと答えた。王は「象とはどういうものだ」と聞いた。

足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた、

尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、

腹を触った者は太鼓のよう、

脇腹を触った者は壁のよう、

背を触った者は背の高い机のよう、

耳を触った者は団扇のよう、

頭を触った者は何か大きなかたまり、

牙を触った者は何か角のようなもの、

鼻を触った者は「大王様、象とは太い綱のようなものです」と答えた。

そして、王の前で「大王様、象とは私が言っているものです」と再び言い争いを始めた。

鏡面王は大いにこれを笑って言った、「盲人達よ、お前達は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね」。      ウィキペティアより参照

「群盲象を評す」のたとえは、否定的な意味として使われる事が多いが、見常者が見える事でわかったふりをして、触るという行為に至らずに知覚の一部を遮断してしまい逆に理解の幅を狭めているとも受け取れる。視覚を遮断した触覚に関する企画は筑波大学にて昨年「暗闇でさまざまな物に“さわる”「触文化」体験ワークショップ」として行われましたが、ヤミ・タイプロジェクトとしても視覚障害者の体験とは違うスタンスで、ぜひ行いたいと思います。

 

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